京都国立博物館の道路を挟んだ向かい側にある蓮華王院(三十三間堂)には先月行ったばかり。千体ものある千手観音だが平安時代当時のオリジナルは124体しか残っておらず、鎌倉時代に入って追加されたものが大半だそうだ。
日中書の名品で出ていた千手千眼陀羅尼経残巻は僧正玄昉が天平13年(741)7月15日の盂蘭盆会の日に聖武天皇・元正太上天皇・光明皇后の聖寿無窮と皇太子ならびに諸親王、文武百官、天下兆民の忠孝と三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に沈淪する衆生の救済を願って1000巻を書写させた。1000巻作ったにも関わらず残っているのは京博所蔵の残巻のみとなっている。
書写の前年、藤原広嗣が災厄の元凶として聖武天皇の信頼が篤い吉備真備と玄昉の弾劾を求めて反乱を起こした(藤原広嗣の乱)。この反乱を起因させた災厄を鎮めるために、千手千眼陀羅尼経の写経事業を推進した可能性がある。
写経後、藤原仲麻呂が台頭したことで、玄昉は745年に筑紫観世音寺別当に左遷され、746年に同地で没する。玄昉が作らせたものとして、藤原家にとっては宿敵の遺産ということで、多くは残らなったのかもしれない。