国宝を観る

国の宝を観賞していくサイト

国宝を楽しむため、いろいろ書いています。 勉強不足でも観れば分かる。それが国宝だ。

三重県宝塚一号墳出土埴輪 松阪市

国宝となった三重県宝塚一号墳出土埴輪を見たのは東博であるが、ゴールデンウィーク中に松阪市を訪れた時の写真である。町中上げての国宝指定をお祝いしているとまではいかず、駅前のみに幕が貼っていた。夏ごろに国宝指定を受けた埴輪たちの大公開があるようで、暑さに負けなければ行きたい。

さて、東博の国宝指定展には一番目立つ舟型埴輪を展示していた。写真で見ると大きさが分からないので、実物が気になっていた。大きさ的には居酒屋の舟盛りの特大サイズ、10人から15人前が乗せられそう。がんばれば一人で持ち上げられるが、二人で持ち上げるのがベストな大きさであった。船の装飾は単純なもので、表面の意匠はそれほどつけていなかった。祭事に使うというよりも埋めるための副葬品であることが分かった。松阪市の宝塚一号墳から出土したというのだから、海に近く漁業関係者もしくは海賊の頭領が埋葬されていたのかもしれない。

今回の新指定の国宝・重文展には発掘品が多く展示されていたが、東博で秋に開催される埴輪展のプレイベントかと思わせるぐらい新指定を受けていた。この展示物だけでも楽しめたのだから、秋の特別展は期待してしまう。

 

木造六観音菩薩像(木造准胝観音立像)と木造地蔵菩薩立像 定慶作 大報恩寺

東博で開催される新指定の国宝・重要文化財展がゴールデンウィークを挟んだ日程での開催に戻った。コロナ禍で博物館全体の休館や、ソーシャルディスタンスの強要、混雑回避など様々な制約があったことから、開催時期が不安定だったが、ようやく元に戻った。

開催場所は本館の特別室と彫刻の展示スペースで、まずは1階の彫刻の部屋にて大報恩寺の仏像たちとご対面する。国宝指定を受けた彫刻は木造六観音菩薩像6軀と木造地蔵菩薩立像、それと像内納入経。さすがに京都からすべてを運ぶわけにいかなかったようで、地蔵菩薩准胝観音の2軀が上京してきた。

2018年に東博で開催された大報恩寺展や大報恩寺の宝物館でも見ているはずだが、大きく実感した。実際は170cmから180cmぐらいの大きさの仏像が台座に乗っているだけなのだが、東博の展示が周りに比較物がない展示と照明の妙がそうさせたかもしれない。2018年の特別展では光背がある前期と外した後期という面白い試みがあったが、新指定展ではともに光背ありでの展示であった。

文選集注 称名寺

金沢文庫の2階では国宝文選集注といただきもの!?展を開催していた。

いただきものとなっているが、要は寄贈品のこと。文選集注を永遠に寄託を受ける条件として、それを地域で保管するというもので、県立の施設を作って金沢文庫が復興した。金沢文庫が誕生したことで、地域の有力者が集めた文化財が集まるようになった。

普段、展示物を見るのに誰が入手したかや寄贈品であるということなど気にすることはない。最近の博物館や美術館では寄贈者の名前などを冠して〇〇コレクションなどを解説に別途記載することがある。ただ、あくまで自館蔵として公開している。茶器や刀は来歴を非常に重視するので、公開時に説明をよく読むことが、文化財となるとあくまでそのものに興味があるので、寄贈者までに目が届かない。今回のような展示会があると、集めた人まで見えてその人たちの人生を垣間見えたのが面白かった。

称名寺からの寄託品である文選集注の展示は最終版だった。時期により公開巻が違う。広げていたのは三国志でお馴染みの曹操などについて書かれた部分だった。文選は中国古代の歴史を集めたもので、解説を書いたのが集注となっている。すべて漢字で書かれているが、時代を経ても読むことができる。平安貴族たちの参考書であり、鎌倉武士たちも教養を高めるために読んでいたものである。

さて、今の金沢文庫は神奈川県が復興したものだが、元々は鎌倉時代の北条一族が造った文庫があり、称名寺が細々と受け継いできた。書物などに金沢文庫の印が押されたものをたまに見るが、北条家の衰退により流出したものである。クラウドファンディングを通じて収集を進めているが、散逸したものを地域の文化財として守っていく意気込みが感じられ、面白い取り組みとなっている。資金集めを兼ねた大規模な金沢文庫の世界展が企画されたら、見に行きたい。(神護寺印や仁和寺印など有力な寺社が押した蔵書印展でも面白そう)

称名寺聖教 称名寺

3月下旬より金沢文庫で開催されている「国宝文選集注といただきもの!?」展にようやく行くことが出来た。春休みやゴールデンウィークは鎌倉や横浜などで観光を楽しむ人であふれていると思い二の足を踏んだため、遅まきながらの遠出となった。

金沢文庫には2018年の春以来の訪問で、京急金沢文庫駅構内が少し明るくなったように思えたが、金沢文庫までの道中はほぼ変わりなかった。前回は称名寺境内から金沢文庫へ入る王道スタイルの入館だったが、今回は駐車場から入るルートを選択。近さからだと駐車場からの方が早いが、トンネルをくぐって文庫の建物が見えてくる方がなんとなく寺内の博物館へ来たという高揚感が得られたので、おすすめは境内から入る方だ。金沢文庫自体は近代的なコンクリート製の建物で、駐車場口から入ると普通の博物館へ来ただけの感覚になる。

さて、特別展は2階で開催していたが、1階では小企画として神奈川県立金沢文庫資料にみる中先代の乱を開催していた。そこで、国宝の称名寺聖教の中から、顕宝伊豆国修善寺再興顕文案と華厳演義抄纂釈を展示していた。いずれも後の世の中でよく読まれた伝記などの一次情報として原本が称名寺に残っているというもの。鎌倉時代の貴重な資料がいまも引き継がれているという点で国宝となったものである。鎌倉のよう大都会にあると合戦などで盗まれたり焼かれたりしたかもしれない。金沢文庫が静かな住宅街の中にあるのは必然の立地なのだろう。

慧可断臂図 雪舟筆 斉年寺

京博の雪舟伝説へは発表があった時から行くことに迷いはなかった。ただ、これまでの雪舟の作品展とどれだけ違うのかが心配だった。その点では3階で雪舟作品、ほかで伝雪舟作品や(模写を含め)影響を受けた作家たちの作品が並んでおり、憧れの作家であったことが分かった。

そして、会場は違えど京都市京セラ美術館で開催中の村上隆展でも影響を受けた画家に連なる作品を展示していた。慧可断臂図は風景画が多い雪舟作品にあってひときわ異彩を放つ作品である。雪舟作品は達磨大師へ弟子志願している慧可が自らの腕を切り落して信念を示している図で、全体的に静寂感が漂った描き方となっている。対して、村上隆の作品は達磨大師の視線から見える切り落した腕を描いており、慧可の情熱が伝わってくる。どちらも本来ならばグロテスクな構図になるところを画力を通じて信念を貫く僧侶の思いが伝わる作品に仕上げている。いつまでも憧れの画聖として、またよい教科書として雪舟作品は見られ続ける。

後醍醐天皇宸翰天長印信 醍醐寺

天長印信とは、天長3(826)年3月5日に弘法大師空海が高弟の真雅に授けたといわれる奥義伝授の証明書(印信)のことで、醍醐寺座主かつ三宝院流正嫡のみが相伝できる至ものである。ただ、空海が伝えったものでなく、偽書であることが定説となっている。

とはいえ重要な証明書に変わりはない。南北朝時代醍醐寺座主となった文観は三宝院流ではなく報恩院流であったため、相伝できなかった。そこで、主君である後醍醐天皇に天長印信の写しの製作を依頼し、伝空海の正本や伝勝覚の代の副本も散逸したため、醍醐寺の至宝となっている。国宝に選ばれたのは宸翰様と呼ばれる書風の代表例であるためで、和様に中国の禅林墨跡の書風を交えた書となっている。

書の名品として展示されることが多い中、今回は内容が重要で真言宗の経典瑜祇経の真髄を説いている。文観は後醍醐天皇に伝法灌頂(阿闍梨の位)を授ける一方で、天皇醍醐寺を庇護する濃密な関係にあった。高野山金剛峯寺教王護国寺(東寺)のように空海が設立に関与した寺院に比べて、醍醐寺は孫弟子の理源大師が開山し、醍醐天皇祈願寺として手厚い庇護を受けた。正当性を示すため空海の教えを受け継いだ証明として、国家安寧に貢献してきた醍醐寺の価値ある文化財である。

天橋立図 雪舟筆 京都国立博物館

日本で描かれた大陸風の山水図の多くは写生ではなく創造して描かれている。当たり前だが、大陸へ渡ること自体が非常に困難な時代に、画業のために渡航するのはよほどのパトロンがいなければできない。雪舟が大陸へ渡ったことを誇らしく賛に書いたのものそのためである。

雪舟が凄いのは一般的な日本の山水画家が大陸風山水画を描くことがほとんどだが、現実の日本にある風景を描くため現地へ行って描いた点にある。日本三景のひとつ、天橋立の絶景を描いた雪舟の作品は下絵とも言われているが、その描写力は500年の時を超えて衛星写真が気軽に見ることができる環境下でも色あせることはない。天橋立付近を上から見た図を描いているが、高台やドローンもなく本人が鳥になったかの如く、正確な描きぶりである。観察力と想像力、作家性を遺憾なく発揮した作品である。この図を屏風に仕上げていたら、さぞ壮大なものができただろう。雪舟のことだから、手近な宮島も描いた可能性があり、家にいながら旅行気分が味わうよいツールとなったことだろう。

国宝拝観者たちの夢、千件越えをいつの間にか達成した。 毎年、国宝指定数が増えているので、容易にはなってきているものの、一つの目標が完結した。 次の1100件は果てしなく遠いので、1050件を一区切りにしよう。