永青文庫は肥後・熊本藩主であった細川家の至宝を保管・公開するために作られた美術館である。明治の廃藩置県で大名は華族へ鞍替えし、戦後の身分制度廃止に伴って一般人となった。そのため、先祖伝来の家宝の保存が膨大な相続税の課税により持ち続けることは難しくなった。そこで、公益法人を設立して美術館を作って、散逸を防ぎきっちりとした保存をするようになった。永青文庫もその一つではあるが、他の大名系美術館とコレクションに違いがある。
それは、第16代当主の細川護立が無類の美術コレクターであることだ。大名系美術館は江戸時代までに収集・伝来したものが所蔵品の大半を占める。しかし、永青文庫は明治に入って以降に護立が蒐集したものがあり、それらは価値が高く貴重な美術品が多い。そのため、護立コレクションが伝来品と共に所蔵品の双璧となっている。
今回の細川の名刀たちは、4階の会場がほぼすべて刀、3階と2階には鍔などの刀の附属品を展示していた。4階の一番最初に展示していたが、始まりの刀である金象嵌銘光忠光徳花押(生駒讃岐守所持)である。なぜ始まりかと言えば、細川護立が高校生ぐらいの1900年に、お小遣いを母親に前借して(当時のおよそ300円、現在だったら600万円ぐらい)購入した刀であるからだ。母から借りて買ったものが国宝なのだから、まさに慧眼の持主であった。大名系美術館にある国宝刀は先祖伝来物がほとんど。それが、永青文庫の国宝4口は明治以降にすべて手に入れている。
さて、金象嵌銘光忠は讃岐藩主・生駒正親が持っていたこともあり、別名が生駒光忠とも言われている。豊臣秀吉に仕えた生駒正親が関ケ原の合戦では東軍につき讃岐領を安堵され、江戸時代となった。やがて、生駒騒動により生駒家は改易され、生駒光忠は行方知れずとなっていた。刀は本阿弥光徳によって金象嵌により光忠と光徳自身の花押が入れられている。鎌倉時代に作られた刀で結構な長さがあったのか、調整するため柄の部分が切られている。刃紋は荒波を想像させるぐらい勢いのある景色で、これを見れば大金を積んでも欲しくなる気持ちが分かる。