国宝を観る

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国宝を楽しむため、いろいろ書いています。 勉強不足でも観れば分かる。それが国宝だ。

小桜韋威鎧 兜 大袖付 菅田天神社

御嶽神社で平安末期の武士の名残りを見た後、河内源氏の源新羅三郎義光の時代のものを見に行く。

山梨県甲州市塩山にある菅田天神社の国宝・小桜韋威鎧は見る機会がとにかく不規則で短期間となっている。おまけに天候によっては公開が中止されるため非常にチャンスが少ない国宝となっている。

前回公開したのが2019年8月7日。この時、情報は入手していたが台風の影響で天候が読めなかったため行くことを断念した。結果的には公開されたようだが、次の機会として信玄生誕500年の2021年に狙いを定めていた。ところが、コロナ禍もあって公開される気配は全くなく4年が過ぎた。そして今回、甲州市の広報誌に国宝の公開情報が掲載されていたので、万全を期すため前乗りで現地に入った。

この日はおよっちょい祭り当日。町内のスピーカーからは会場の催し物の声が響き渡っていた。駅から歩いて5分ほどで菅田天神社につくのだが、その手前が祭の会場となっていた。9時半公開とのことだが、9時ちょっとすぎに神社に到着。すでにかなりの数の人が並んでいた。スタッフ談だと遠方から来た人が8時前には並んでいたとのことで、国宝フリーク待望のイベントであることは間違いない。鎧は神社本殿を正面に見て左側の蔵に鎮座している。蔵の前には國寶 小櫻韋威鎧と彫った石碑が建っていた。公開されていなくても御神体秘仏でなく秘神)として参拝の対象となっている。

小桜韋威鎧は甲斐源氏の祖である新羅三郎義光から続く武田家の象徴で、家督相続の証として用いる御旗・楯無の「楯無」が小桜韋威鎧のことである。歴史大河ドラマで床の間に甲冑を置いて軍議を開く場面を見たことがあるがその甲冑がこれにあたる。

源氏の重宝として保元物語平治物語に登場する8つの鎧。源太生衣、八龍、楯無、薄金、膝丸、月数、日数、沢瀉の八領のうちで現存するのが盾無のみとなっている。この当時の鎧の形状をいまに伝えているのが、やまと絵展で見た伴大納言絵巻で、国宝を見まくるとリンクしてくるので面白い。

楯無の名は、楯が不要なぐらい堅牢ということでギリシャ神話だとアテナが用いる防具アイギス(英語ではイージス)といったところ。だが、この堅牢さも織田信長の前では無力だった。武田家滅亡の際、奪われることを恐れた武田家家臣が向嶽寺の境内に埋めたが、徳川家康が掘り出し再び菅田天神社に納め、現在にいたっている。

さて、着いた時点でも人がかなり集まっていたが時間が経つごとに列が長くなったことから、公開開始を早めて実施した。2人一組(グループ3人ならそれを一組にする場合もあった)での拝観で、蔵の真正面まで上ってじっくりと見ることが出来る。写真はフラッシュをたかなければOK。係員がだいたい1分を目安に声掛けして入れ替えを行う。なんだか某アイドルグループの握手会のようだとの声が聴かれた。50分ほど待った10時過ぎにようやく小桜韋威鎧にご対面できた。

蔵自体に照明設備が整っておらず非常に暗い中で小桜韋威鎧 を見ることになる。正面はよいのだが、保管するケースがあることから側面は見ることが難しい。背面に至っては全く見えない。見える範囲でだが、武田信玄の時代から数えても500年が過ぎている鎧のはずだが綺麗に残っている。なお、東博の常設展示で模作を展示している。こちらも写真OKで、じっくり見ることが出来る。

事前告知と好天気に恵まれたことから小桜韋威鎧公開は大成功だったと思う。他の国宝のように時期を決めて(およっちょい祭り開催日とか)公開してくれたら、清白寺と大善寺の国宝建築も抱える甲州市に足を運ぶ回数も増えるだろう。

国宝拝観者たちの夢、それは千件越え。 毎年、国宝指定数が増えているので、容易にはなってきているものの、一つの目標である。 900件を超えた辺りから新規の拝見ペースが落ちているが、果たしていつ達成なるか。