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後宇多法皇宸翰東寺興隆条々事書御添状 東寺

東寺宝物館の2022年秋の特別展示会のテーマは大河ドラマに引っかけた「鎌倉時代の東寺– 弘法大師信仰の成立 –」であった。鎌倉と京を結ぶ糸が大師信仰にあるというより、後嵯峨天皇の政治に対する執着があればこそ、大師に結び付いたと思える。

鎌倉幕府が誕生した後も、天皇家は依然として京に住んでいた。その最中、源頼朝の直系男子が途絶え、鎌倉からの依頼で都から大将軍となる人を呼び寄せることとなった。最初は渋って九条家から下ったが、後嵯峨天皇は長男・宗尊親王を6代目として鎌倉へ送る。宗尊親王は母方の身分が低いために皇位継承は難しかったための措置だろうが、後嵯峨天皇の政治へ関与したい現れだと思う。

後嵯峨天皇の譲位は早く、後深草天皇には数え4歳で践祚した。さらに深草天皇は弟の亀山天皇が11歳の時に践祚させたのは、後嵯峨上皇の差し金だろう。この兄弟による譲位は、やがて亀山系の南朝大覚寺統)と後深草系の北朝持明院統)による対立が生じる端緒となった。

さて、兄から受け継いだ亀山天皇天皇の位を息子である後宇多天皇へと譲った。生後8か月で立太子し、8歳で践祚したのだから、亀山天皇が息子に継がせたかった思いが伝わる。ただ、面白くないのが兄である後深草上皇で、幕府に働きかけ、後宇多天皇が即位して13年後に後深草上皇の息子を伏見天皇に押し込むことに成功した。南北朝がこじれる原因は後嵯峨天皇の息子たちにあった。

さて、後宇多法皇は息子の(伏見天皇のあとを継いだ)後二条天皇の時に院政を敷き、1307年に仁和寺で得度。1308年に後二条天皇が死亡し権力を失い真言密教に傾倒することとなった。なお、後宇多法皇の息子には、後二条天皇のほか鎌倉幕府を終焉させた後醍醐天皇もいる。

後宇多法皇宸翰東寺興隆条々事書御添状は、弘法大師に帰依した後宇多天皇が、出家の翌年の1308年、院政が終わった年に東寺の発展を願って書き記したもの。得度を受けた仁和寺や旧嵯峨御所に建つ大覚寺真言宗なので、東寺には総本山的な位置づけで思いを書き綴ったものを納めたのだろう。書道や和歌などに精通した後宇多法皇だけに、歴史的価値に加えて、美術的な価値も見出せる。

 

国宝拝観者たちの夢、それは千件越え。 毎年、国宝指定数が増えているので、容易にはなってきているものの、一つの目標である。 900件を超えた辺りから新規の拝見ペースが落ちているが、果たしていつ達成なるか。