
竹生島にある都久夫須麻神社の本殿は豊臣秀吉が築城した伏見城の日暮御殿を移築したものである。唐門と同じく息子の豊臣秀頼が片桐且元に命じて移築した。彫刻がすばらしく、贅沢な神社だと思っていたが、移築されたものであった。伏見城は秀吉が亡くなった場所で、鎮魂のために静かな場所へ移したのだろう。
さて、移設を命じられた片桐且元は秀吉の直参衆で賤ケ岳の七本槍の一人である。父の代からの番頭で秀頼の信頼が厚い一方で、徳川家康とは秀吉死去後に秀頼が大阪城へ移った際に宿泊場所として片桐邸に2泊提供した仲であった。関ケ原の戦いでは石田三成側(西軍)に付くが、敗戦後に豊臣と徳川の仲介役として奔走した。方広寺鐘銘事件の中心におり、その後大坂を離れることになり、大坂夏の陣へと移る。事務方のキーパーソンで、表で大活躍する武闘派と違い、調整役として能力の高さがあったが、父の代からの番頭は息子にはウザい存在となり、豊臣家の崩壊を早めた。