鑑真和上がもたらした戒律は時代の変化があるごとに見直されている。真言律宗の西大寺中興の祖である叡尊は慈善活動に力を入れて信仰を集め、生きてる間に坐像にされるほど尊敬されていた。その少し前に活躍した 俊芿もまた戒律の重要性に気づいた一人である。
俊芿は鎌倉時代初期に活躍した僧侶で、大宰府観世音寺で具足戒を受けたのち、戒律に目覚めて宋へと渡って修行した。大陸では禅・律・天台教学を学び、帰国後に泉涌寺を拠点に天皇・公家・武家など多くの信者を獲得した。泉涌寺では台密・東密・禅・浄土の四宗兼学に律を加えた道場として栄えるが、その基盤を作ったのが俊芿なのだ。南北朝以降、特に江戸時代の天皇家は同寺院に埋葬されるようになったことから御寺と呼ばれるまでとなる。
附法状は俊芿が亡くなる前の月に、弟子の心海阿闍梨に書き与えたもので、宋で流行っていた黄山谷風の行書体で書かれている。死ぬ間際とは思えないしっかりとした書かれている。