国宝を観る

国の宝を観賞していくサイト

国宝を楽しむため、いろいろ書いています。 勉強不足でも観れば分かる。それが国宝だ。

【親鸞】教行信証 坂東本 親鸞筆 本願寺

2023年は親鸞聖人が 誕生して850年の年となる。親鸞は日本最多級の信徒を抱える浄土真宗の開祖で、当時としては、いや今の時代でも長寿とされる90歳まで生きた。その生涯と教えを紹介する展示会・親鸞 生涯と名宝が京都国立博物館で3月25日から5月21日まで開かれる。

長生きした人生は波乱万丈で、師匠である法然とともに時の権力者に目をつけられ、罪人として還俗させられ、越後に流罪させられ、関東、東海と転々とする中で、信念を布教していく。晩年に京都へ戻り、教えを記したものが教行信証である。

教行信証は60歳代で京都に戻る前から書き記し、80歳代に加筆・修正をした親鸞直筆の信仰を体系化した書跡である。国宝の坂東本以外の西本願寺本、高田本が初めて集結する点も見どころである。

 

レア★★★
観たい★★★
コラボ★★★

通期

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普勧坐禅儀 道元筆 永平寺

冬の福井市へ行くことになった。今年は大雪が何度もあったようだが、そこは雪国、融雪装置が十二分に機能しており、市内の交通網はスムーズに動いていた。

福井市内の国宝を観るべく、永平寺へ行った。こちらでも残雪は大量に残っているものの、道路状態は水浸しだが歩くのに不自由はなかった。観光名所でもある永平寺曹洞宗大本山で、僧侶の修行の場となっている。なので、僧侶を含む撮影はNG。極寒の地での修業風景はNHKのドキュメントなどで見たことがある。禅宗は己を鍛えることが重要で、その過程で顔つきが変わってくるのが印象的だった。そのため、僧侶が写り込む撮影はNGとなっている。(プライバシーもある)

堂内は案内に従い見学できるが、足元が寒い。さすがに扉がない箇所には防風のためのトタン板が貼られていたが、それでも隙間風が入る。雪景色が楽しいのは観光客だけと言われるのも廊下を歩くだけで少し分かった気がする。冬場とあって観光客はまばら。とは言え少しは来ていたのがビックリだった。

建物は山の山腹を利用した建て方で、すべて廊下と階段でつながっている。この廊下と階段の掃除は僧侶のお勤めで、素足で拭き掃除するそうだ。なので、ちりひとつない綺麗な状態となっている。仏殿や法堂は中に入ることができなかったが、のぞき見は可能。シンプルな内装だった。これらを歩き見しているとなぜか法隆寺の上御堂を思い起こした。上段に行くほどに大切なものが祀られていたからかもしれない。

建物を見終えて、肝心の国宝はどこにあるかと探すと、物販などがある吉祥閣の出口の反れた廊下の先に瑠璃聖宝閣があった。だいぶ昔に行ったときは見逃していた場所である。

中に入ると一番最初に道元筆の普勧坐禅儀が展示されていた。座禅の奥義書で、南宋から帰国後に記したものである。これを記したのが1227年で道元が27歳の時。ひたすら坐禅にうちこむことが最高の修行であるとし、只管打坐の精神を広める書となっている。

宝物館にはその他に、越前を領地としていた戦国武将の書状などを展示していた。残念だったのが、一部で電気関係のトラブルで展示スペースをフル活用できていたかった点だ。なかなか行く機会がないので、多くの寺宝が見たかった。

短刀 銘則重  永青文庫

永青文庫は早稲田方面から行くと一山登る必要がある。美術館となっている洋館が眺めを重視した小高い丘の立地となっている。この丘の麓に細川家の庭園が残っている。隣の椿山荘の庭園が素晴らしすぎるが、細川庭園も泉水式庭園の基本に沿った造りで和む空間となっている。早稲田方面からは庭園から小高い丘に登ってようやく美術館へたどり着く形になる。

永青文庫の国宝刀一挙公開のラストは短刀・則重だった。鎌倉末期の越中の刀工で、幻の刀工・郷義弘の師とみられている。刀身が24cmと小振りな割には力強さを感じる出来栄え。刀の表面は松の木の皮に例えられる松皮肌となっているもののそれ程目立たない。則重の傑作とされることから日本一則重と言われている。則重の中の則重、則重ナンバー1が永青文庫が所有するものである。

4階の刀剣の展示を見終えて、3階、2階の刀剣関連の細工へ移ること、細かな細工物が多く、これはこれで楽しむことが出来た。武家の棟梁たる細川家、美術愛好家としての護立の慧眼を合わせて観ることが出来た展示会だった。

短刀 無銘正宗 (名物庖丁正宗) 永青文庫

コロナも落ち着いてきたが、今回の展示会は完全予約制だった。念には念を入れた対応と思っていたが、別の次元で予約制だったことが入ってみて思い知らされた。それは刀剣女子たちの過熱した人気に対応するためだった。3年間のコロナ禍で予約制にすっかり慣れていたため、この角度で必要だったことを失念していた。来場者の9割5分以上が刀剣女子たちだった。人だかりは出来ないまでも、ショーケース前には常に人が観覧している状況だった。

さて、相模国の刀工・正宗の作品。短刀で包丁に似ていることから包丁正宗と呼ばれている。この名前で呼ばれている短刀は3口あり、そのすべてが国宝となっている。

尾州徳川家伝来のものが、徳川美術館所蔵。日向藩内藤家所蔵が大阪の法人錦秀会蔵となっている。

永青文庫のものは僧侶の安国寺恵瓊が所持していた。毛利家に仕えた僧侶で外交に暗躍、羽柴秀吉の中国攻めに際して、交渉役となり和議を結ぶ助言をした。(秀吉側は本能寺の変を聞きつけて、和議後に中国大返し畿内に戻った。)関ケ原の合戦では西軍につき、石田三成とともに斬首された。この安国寺を捕らえたのが奥平信昌で、身柄と共に包丁正宗を家康に引き渡し、褒美として信昌が受け取った。信昌から子の松平忠明に譲られて、忠明が武州忍藩へ転封して同藩に伝わった。明治に入り、山下汽船の山下亀三郎が所持。伊東巳代治に贈った後に、伊東家から昭和11年7月に14700円で細川護立が購入した。

徳川美術館が所有する包丁正宗は薄くてフォルムも美しいため、お気に入りの作品である。永青文庫のものはそれに比べて、でっぷりと丸みを帯びた形状で、包丁という形容にはこちらの方がふさわしい。

太刀 銘豊後国行平作 永青文庫

江戸川橋駅から永青文庫まで歩いて行くと、講談社鳩山会館といった文京区の名建築と出会える。急な坂を登り、永青文庫の案内看板を目印に路地に入ると和敬塾が名に入る。和敬塾は男子大学生寮前川製作所創立者でもある前川喜作が人材育成のために設立した。文科省事務次官だった前川喜平はその一族である。そして、その隣に永青文庫の正面玄関がある。

さて、展示は生駒光忠から数口挟んで古今伝来の太刀・銘豊後国行平が陳列されていた。古今伝来と名の付くのは、元々は細川家の中興の祖である戦国武将・幽斎が所持していたことに由来する。細川家は室町幕府において将軍を補佐して政務を総覧する幕府最高役職である管領を輩出する3家のひとつで、応仁の乱でも一方の当事者となった名門中の名門である。

この名門家の古今伝来の唯一の継承者であった幽斎が関ケ原の戦いの前、東軍に属して田辺城に籠城した際に、継承が途絶えることを恐れた八条宮智仁親王が開城を求めた。それを謝絶したことから後陽成天皇が勅使まで派遣して講和にたどり着いたことへの感謝から勅使の一人であった烏丸光広へ送った太刀が豊後国行平作である。明治に入って、細川護立が買い取ったことで、古今伝来の太刀が細川家に舞い戻ってきて、永青文庫への至宝となった。

作者の行平は反りのある刀に彫刻を行った刀工としては最も古い人物とされている。日本刀のイメージを形作った一人である。古今伝来の太刀は美しい反りがあることに加えて、他の太刀に比べるとサーベルのように細長い。ある程度の重さがあることで、切れ味が増すので、実践向きと言うよりも飾るためのものとなってしまっている。年月を超えて、元の持主の一族が所蔵する数奇な運命をたどった名刀である。

 

 

 

刀 金象嵌銘光忠 光徳 永青文庫

永青文庫は肥後・熊本藩主であった細川家の至宝を保管・公開するために作られた美術館である。明治の廃藩置県で大名は華族へ鞍替えし、戦後の身分制度廃止に伴って一般人となった。そのため、先祖伝来の家宝の保存が膨大な相続税の課税により持ち続けることは難しくなった。そこで、公益法人を設立して美術館を作って、散逸を防ぎきっちりとした保存をするようになった。永青文庫もその一つではあるが、他の大名系美術館とコレクションに違いがある。

それは、第16代当主の細川護立が無類の美術コレクターであることだ。大名系美術館は江戸時代までに収集・伝来したものが所蔵品の大半を占める。しかし、永青文庫は明治に入って以降に護立が蒐集したものがあり、それらは価値が高く貴重な美術品が多い。そのため、護立コレクションが伝来品と共に所蔵品の双璧となっている。

今回の細川の名刀たちは、4階の会場がほぼすべて刀、3階と2階には鍔などの刀の附属品を展示していた。4階の一番最初に展示していたが、始まりの刀である金象嵌光忠光徳花押(生駒讃岐守所持)である。なぜ始まりかと言えば、細川護立が高校生ぐらいの1900年に、お小遣いを母親に前借して(当時のおよそ300円、現在だったら600万円ぐらい)購入した刀であるからだ。母から借りて買ったものが国宝なのだから、まさに慧眼の持主であった。大名系美術館にある国宝刀は先祖伝来物がほとんど。それが、永青文庫の国宝4口は明治以降にすべて手に入れている。

さて、金象嵌光忠は讃岐藩主・生駒正親が持っていたこともあり、別名が生駒光忠とも言われている。豊臣秀吉に仕えた生駒正親が関ケ原の合戦では東軍につき讃岐領を安堵され、江戸時代となった。やがて、生駒騒動により生駒家は改易され、生駒光忠は行方知れずとなっていた。刀は本阿弥光徳によって金象嵌により光忠と光徳自身の花押が入れられている。鎌倉時代に作られた刀で結構な長さがあったのか、調整するため柄の部分が切られている。刃紋は荒波を想像させるぐらい勢いのある景色で、これを見れば大金を積んでも欲しくなる気持ちが分かる。

一切経箱 大長寿院

金峯山寺仁王門の金剛力士立像がなら仏像館に安置されて2年になる。時が経つは早い。何度となく訪れているが、観るたびに力をもらっている。仁王門の修理完了(令和10年予定)まで観ることができるそうだが、これからもパワーをもらいに訪れたい。

さて、なら仏像館にも同館所蔵と元興寺の国宝・薬師如来像が展示してあったが、それよりも珠玉の仏教美術で面白い国宝に出会った。大長寿院の一切経箱だ。これは奥州平泉にある中尊寺塔頭寺院である大長寿院の経蔵に納められていた中尊寺経が国宝に指定されていることから付属として指定を受けている。経箱単独での国宝は何点があるが、そのどれもが入れ物自体の細工が鮮やかに仕上げられているものばかりである。一方で、大長寿院の一切経箱はとてもシンプルである。個人的にはきんきんぎらぎらした経箱より、落ち着きのある箱のほうが好みである。奥ゆかしい東北人気質にあった仏教美術である。

国宝拝観者たちの夢、それは千件越え。 毎年、国宝指定数が増えているので、容易にはなってきているものの、一つの目標である。 900件を超えた辺りから新規の拝見ペースが落ちているが、果たしていつ達成なるか。