国宝を観る

国の宝を観賞していくサイト

国宝を楽しむため、いろいろ書いています。 勉強不足でも観れば分かる。それが国宝だ。

【中国古典名品展】劉夢得文集宋版 天理図書館

中国の古典書と言えば漢詩で、学生時代に悪戦苦闘した苦い記憶しかない。唐時代から科挙に受かれば官吏となれるようになった。そこで、官吏としての優秀さは仕事ができるだけでなく、嗜みとして遊興も一流が求められるようになった。官僚文人として書画や音楽など芸術全般に通じていて初めて評価される。白居易はその先駆けで、詩人として日本国内に大きな影響を与えている。白氏文集は白居易が残した詩を集めて編纂し、同展示会にもノミネートされていた。

白氏文集が展示されていた、その近くには国宝の劉夢得文集があった。劉禹錫の詩文集で白居易とも交流があった人物の詩文集である。宋の時代になって、印刷技術が高度化したことで、版本が出版されるようになった。その中で宋時代につくられ残っている劉夢得文集の初期版12冊が天理図書館の所有となっている。

古いだけでなく、この劉夢得文集は来歴も国宝に相応しい。劉夢得文集を大陸から日本に持ち込んだのは臨済宗栄西で、建仁寺や鎌倉の寿福寺を開いた僧である。この栄西は喫茶文化を世に広めたことでも知られている。劉夢得文集は建仁寺に伝わり、足利義満が見たことを示す「天山」の印が捺されている。室町幕府の将軍も閲覧した宋版の文集は単に大陸から伝わった以上の価値がある。

【中国古典名品展】南海寄帰内法伝 天理図書館

大学で国宝を所有しているところはそれほど多くない。東京大学が島津家文書、早稲田大学はつい最近公開があった礼記子本疏義と玉篇、東京芸術大学にも絵因果経と観世音寺資材帳、慶應義塾大学の秋草文壺は東博で頻繁に展示されている。地方では東北大学類聚国史史記京都大学龍谷大学大阪青山大学保有している。

名だたる大学が並ぶ中で、最も国宝を所有しているのが天理大学。実に6件を保有している。この内の半分、3件を出展した特別展を開催。天理大学が所有する中国古典の名品を紹介する内容で、国宝以外にも多くの重要文化財の書跡を所有しているため、豪華なラインナップとなっている。東京でも春ごろに開催した内容を巡回しており、天理の本部では参考館での開催となった。いつものように特別展は3階の1室を使用。中国の歴史的な書跡が並んだ。

まず最初に展示していたのが南海寄帰内法伝。唐時代の僧である義浄が旅した内容を記した見聞録である。インドへの留学を終えて、中国に帰る道中で立ち寄った東南アジアについて書かれており、当時の風習などが分かる貴重な資料となっている。玄奘三蔵が記した大唐西域記と共に、同時代の世相を知る上で重要な文献である。

義浄が中国に戻ると武則天自ら出迎えた。国家事業として仏典の漢訳を行う訳経を担当し、金光明最勝王経などの漢訳などを行った。いま漢字の経典があるのも、この時に整備したから。梵語なら読むのに苦労していたはずだが、漢字なのでなんとなく分かったように思えるのはこの事業の賜物である。

後宇多法皇宸翰東寺興隆条々事書御添状 東寺

東寺宝物館の2022年秋の特別展示会のテーマは大河ドラマに引っかけた「鎌倉時代の東寺– 弘法大師信仰の成立 –」であった。鎌倉と京を結ぶ糸が大師信仰にあるというより、後嵯峨天皇の政治に対する執着があればこそ、大師に結び付いたと思える。

鎌倉幕府が誕生した後も、天皇家は依然として京に住んでいた。その最中、源頼朝の直系男子が途絶え、鎌倉からの依頼で都から大将軍となる人を呼び寄せることとなった。最初は渋って九条家から下ったが、後嵯峨天皇は長男・宗尊親王を6代目として鎌倉へ送る。宗尊親王は母方の身分が低いために皇位継承は難しかったための措置だろうが、後嵯峨天皇の政治へ関与したい現れだと思う。

後嵯峨天皇の譲位は早く、後深草天皇には数え4歳で践祚した。さらに深草天皇は弟の亀山天皇が11歳の時に践祚させたのは、後嵯峨上皇の差し金だろう。この兄弟による譲位は、やがて亀山系の南朝大覚寺統)と後深草系の北朝持明院統)による対立が生じる端緒となった。

さて、兄から受け継いだ亀山天皇天皇の位を息子である後宇多天皇へと譲った。生後8か月で立太子し、8歳で践祚したのだから、亀山天皇が息子に継がせたかった思いが伝わる。ただ、面白くないのが兄である後深草上皇で、幕府に働きかけ、後宇多天皇が即位して13年後に後深草上皇の息子を伏見天皇に押し込むことに成功した。南北朝がこじれる原因は後嵯峨天皇の息子たちにあった。

さて、後宇多法皇は息子の(伏見天皇のあとを継いだ)後二条天皇の時に院政を敷き、1307年に仁和寺で得度。1308年に後二条天皇が死亡し権力を失い真言密教に傾倒することとなった。なお、後宇多法皇の息子には、後二条天皇のほか鎌倉幕府を終焉させた後醍醐天皇もいる。

後宇多法皇宸翰東寺興隆条々事書御添状は、弘法大師に帰依した後宇多天皇が、出家の翌年の1308年、院政が終わった年に東寺の発展を願って書き記したもの。得度を受けた仁和寺や旧嵯峨御所に建つ大覚寺真言宗なので、東寺には総本山的な位置づけで思いを書き綴ったものを納めたのだろう。書道や和歌などに精通した後宇多法皇だけに、歴史的価値に加えて、美術的な価値も見出せる。

 

智証大師坐像(中尊大師)

大師の忌日に当たる10月29日に行われる智証大師御祥忌法要に行ってみた。2年前のコロナ禍で初めていったが、声明が寺内に響き渡る厳かな感じが印象に残っていた。

今回は参加者も多く。檀家さんが周りを囲んで、お経が読まれる。10時から開始される法要は約1時間弱。これが終わると奥の唐院に鎮座している智証大師坐像の御開扉を見ることが出来る。昨年秋から今年の春先にかけて伝教大師の大遠忌1200年の記念イベントとして、東京・九州・京都の国立博物館天台宗関連の一大展示会を開催していた。智証大師坐像(中尊大師)は九州まで出張してお勤め。半年の休憩の後に今回のお出ましとなった。

唐院内にはたくさんのお供え物が並んでいた。厨子は真ん中の中尊大師のみが開扉していた。なんとなく伝教大師1200年大遠忌記念を無事終え、安堵の表情だった。あたたかな陽気のなかに、時折吹く風が冷たく秋と冬の狭間を感じる、大師の忌日であった。

【壬申の乱】崇福寺塔心礎納置品 近江神宮

日本史の教科書に出てくる初めての乱が壬申の乱だった。大化の改新(いまは乙巳の変というそうだ)とともに、1学期のテスト範囲で必死に覚えた記憶がある。鮮明に記憶する名称の展示会だったので、行くことに躊躇しなかった。詰め込み教育が役に立った瞬間だ。

壬申の乱大化の改新の主役である中大兄皇子天智天皇となり崩御してからの話。天智天皇の弟である大海人皇子(のちの天武天皇)が、天智天皇の息子である大友皇子弘文天皇)と跡目を争った、叔父VS甥の対決だ。結果は叔父の勝利。明治に入るまで大友皇子は歴代天皇には列せられなかった。

歴史は勝者が書くもので、日本書紀などにも出てるくる。と、ここまでならば天武天皇の英雄譚や連綿と引き継いだお宝などが数多く残っていそうだが、そうはならない。まず、天武天皇以降は女帝の時代に突入。流行り病が横行する時代であって、血統重視の女性天皇が誕生した。それに加えて天武系統の天皇称徳天皇で完全に途切れてしまい、天智系統の光仁天皇(歴史上で即位が最高齢の62歳)へと引き継がれた。蛇足だが、光仁天皇の長男である桓武天皇は、奈良から都を長岡京へ移し、平安京へと遷都した。天武系に世話になった人が多い奈良の地を嫌ったのかもしれない。

さて、今回は大友皇子をテーマにした展示会で出土品の出品ばかり。都を近江から奈良へと遷都し、天智天皇が築いた近江大津宮は荒廃したためだ。展示品には国宝の崇福寺塔心礎納置品もあった。これも出土品で、遺構内に合った死者を弔いための荘厳具で、藤ノ木古墳の出土品に比べると、こまかのものが多い。大津に都があったという視点での展示だが、古都という視点では奈良や京都が近いこともあり、地味な展示内容ではある。だが、そこそこ人が見に来ていた。大津市歴史博物館でしか出来ない企画展だった。

曜変天目(稲葉天目) 静嘉堂文庫

響きあう曜変天目

国宝の曜変天目は公開がどこかであれば、それに呼応して別の曜変天目も展示されることが多い。

今年4月に藤田美術館がリニューアルオープンしたことを記念して、曜変天目が公開された。この秋には京都国立博物館で開催中の茶の湯展で龍光院曜変天目が2週間だけ公開された。そして、静嘉堂文庫が所有する曜変天目(通称:稲葉天目)も丸の内で公開された。

2017年に龍光院曜変天目が久々に展示され、同年に3点が公開された際は歴史的なグランドクロスが起こったと思った。つづく、2019年には3点公開を記念して、3つを並べたクリアファイルが発売され、つい購入してしまった。そして、今回。もはや響きあうのが必然なくらいにまで思えてきた。

この曜変天目が展示されていたのは第4室で、第3室から続く部屋だ。この第4室は行き止まりで、出入口が第3室としかない。第4室にはテーマから漏れた国宝などが並んでおり、太刀銘包永や趙孟頫筆の与中峰明本尺牘があった。その中で、独立したショーケースに入っているのが曜変天目で、国宝でも別格扱いだった。稲葉天目の特徴は圧倒的なまでの青色の輝き。輝く変化と言うよりも黒と釉薬の下から青色が覗くといった印象だ。国宝の曜変天目の中では一番青色がしっかり出ている。

静嘉堂@丸の内に展示を移した静嘉堂文庫美術館。全体として世田谷にあった時よりも展示スペースは狭くなっていた。ただ、初回の記念展だったので、真ん中のホワイエ(休憩場所)への展示物配置は目立たない位置に4点ほどとなっていたので、このスペースでも展示されると結構な数を展示できる。むしろ交通の便がよい場所に会場ができたのはありがたく、近くには東京ステーションギャラリー、三菱1号館、出光美術館、アーティゾン美術館、まだ行ったことがない丸紅美術館など、芸術を楽しむ施設が集結している。それぞれ毛色の違い企画展を行っているので、芸術の聖地が上野駅から東京駅に変わる日も近いかもしれない。

源氏物語関屋澪標図屛風 俵屋宗達筆

第3室は入り口から見て左の部屋。金銀かがやく琳派の美と題した部屋となっていた。ここは少し広く、大きめの作品を陳列していた。尾形光琳・乾山兄弟の作品を初め、酒井抱一、鈴木其一、原羊遊斎が並び、本阿弥光悦の草木摺絵新古今集和歌巻が通期で展示されていた。

そこで欠かせないのが琳派の祖、俵屋宗達。もちろん、国宝の源氏物語関屋澪標図屛風を展示していた。14帖の澪標と16帖の関屋の一場面を描いたもので、それぞれ鍵となるシーンが屏風全体で表現されている。源氏物語絵巻だと、文字情報の横に起こったことを網羅するように場面を描き込んで、情報量たっぷりな仕上がりになっている。しかし、俵屋宗達はあえて屏風の大きさいっぱいに一つのシーンのみを描くことで、その場に俯瞰的にではあるがいるような描き方をしていた。これこそ、江戸時代のメタバースだと思う。

この屏風は2つの場面だけとなっているが、関屋と澪標だけではもったいない。とはいえ俵屋宗達に今更制作をお願いする訳にはいかない。AIなどを用いたプロジェクトで、もし宗達が追加の場面を描いたらというものがあれば、それだけでも展示会が成立しそうだ。

国宝拝観者たちの夢、それは千件越え。 毎年、国宝指定数が増えているので、容易にはなってきているものの、一つの目標である。 900件を超えた辺りから新規の拝見ペースが落ちているが、果たしていつ達成なるか。