国宝を観る

国の宝を観賞していくサイト

国宝を楽しむため、いろいろ書いています。 勉強不足でも観れば分かる。それが国宝だ。

曜変天目 藤田美術館

藤田美術館は2022年4月にリニューアルオープンした。よくある建物が変わらず中の設備だけ変わるリニューアルではなく、建物を一から作り直す新規の美術館として誕生した。ブリヂストン美術館がアーティゾン美術館へ生まれ変わったのと同じぐらいの出来栄えであった。

美術館専門の建物は藤田美術館の悲願であった。それまでは戦後すぐに再建された建物を美術館として使用。展示スペースはコンクリート製の蔵をほぼそのままで使用していたため、湿度や光の管理が難しく(いや無理)だったので美術品の展示スペースとしては及第点だった。国宝9点、重要文化財多数を所有する美術館としては文化財保護の観点から展示をし続けるのが困難になりつつあった。

そこで、所蔵の中国美術品を売却することで建て替え費用の一部を捻出することとなったが、これが東洋美術における一度のオークション史上で最高額をはじき出した。藤田家のコレクションがいかに秀逸の物が揃っていたかを示す出来事であった。

今回の建て替えで美術品の展示場所はすべて閉鎖空間となっていて、管理に適した構造に仕上げていた。そのためもあって、内部は薄暗く、美術品に集中できる空間となっている。

美術館の入り口には蔵で使用していた鉄門がそのまま再利用。オールドファンは涙の再開、新規客は新しい試みとして、美術館へのわくわくを演出していた。エントランスにも蔵などで使用されていた古材が再利用されており、歴史を活かした美術館となっている。

展示は1点1点、丁寧に照明を工夫しての展示となっていた。観る者の視線を誘導するのに効果的だが、あまりにも集中するので周りが見えずに、ぶつかることもしばしば。掛け軸類は文字を追うと時間を忘れて見入ってしまう。

藤田美術館所蔵品は奈良博などでの特別展であらかた観た。しかし、何度でも見たくなるのが曜変天目茶碗である。静嘉堂文庫の稲葉天目も毎年のように公開されているはずなのに何度でも見たくなる。(しかも、場所が都心部から遠いにも関わらず。10月には東京丸の内明治生命館へ移転するので見たくなるが「何度でも見る」に変わりそう)藤田美術館では展示替えがあるので、常設ではなさそう。オープニング展だから出ているとすれば、この機会に見に行かねばと訪問に至った。

まず、展示室内は写真撮影が基本的にOK。ただし、スマホのみという変わったレギュレーションだった。光量の足りない室内では思った写真が撮りずらいので、思い出のための一枚が精いっぱいだった。曜変天目のキラキラ感がなかなか表現できない。特に外側の黒光り部分も曜変するのだが、全く写らず。記憶にのみ留める。

美術館全体の展示数がそれほど多くなく、屏風などの大きな物が展示されるとさらに少なくなりそう。レイアウトの工夫で展示空間がどのように変わるかも今後の見どころである。

四天王像 浄瑠璃寺

先日行った浄瑠璃寺の主役は九体阿弥陀仏で、それを守護する四天王像は2体のみが現地にいた。で、調べてみると琉球展開催時は東博浄瑠璃寺広目天像が本館で展示されていた。しかも写真撮影OK。現地ではできなかった激写をしまっくった。

浄瑠璃寺では堂内がそれほど明るくなく、入り口近くに飾り気もなく四天王像が置かれている。そのため、九体仏に目が行くと見逃してしまう扱いとなっていた。それに比べて、東博では写真の通り、1本立ちした彫像で、他に比べても十分魅力が伝わる展示となっている。

平安時代の作品で、鎌倉時代に慶派の奈良仏師が大活躍する以前の彫刻ではあるものの、かなりリアルに作られている。羽衣の空気感は抜群で、見た瞬間に勇ましさが伝わってくる。彩色もこの時代の仏像の中では残っているほうで、浄瑠璃寺で大切に保管されてきたことが見て取れる。

琉球国王尚家関係資料 那覇市歴史博物館

琉球展の目玉展示物である派手な琉球国王尚家関係資料は一部写真撮影がOK。刀剣や細工物に衣類など、王家に伝わる品々は芸術そのもの。

撮影は1室まるごとで、壁には歴代の王様の肖像画がプリントされていて、宝物を見守っている。一番目立つのは王冠。黒色の基本に飾りとして帯状の金糸を縦に這わせて、鋲で止められているのは、サンゴや水晶、金、銀など7種類からなるの玉を鋲で止めている。シックなフォルムとカラフルなアクセントかつ立体的な造形となっている。これも大陸の皇帝や日本の天皇家・将軍家を刺激しないように配慮したものかもしれない。

琉球王朝の衣類では龍が描かれている。ただ、大陸の鋭い龍というよりも、日本のものに近い印象だ。蘇我蕭白ぐらいユニークさはないまでも、若干ではあるが愛嬌を感じる仕上がりとなっている。琉球の温和な気候が龍自身も陽気にさせたのかもしれない。

王朝の贅沢を見た後は発掘されたものや、伝統工芸などが続く。独自の文化を進化させてきた琉球第二次世界大戦で激戦地となったため、多くの文化財は失われた。琉球を再発見するためにはまだまだ時間が必要だ。

島津家文書 東京大学史料編纂所

沖縄返還および日本復帰50周年を記念した展示会「琉球」が東京国立博物館で開催されている。最近の東博の特別展は普通に2000円を超えた入場料で団体割引もなく高いと感じている。また、巡回展ならば東京より地方の方が値段を安く設定しているので、東京で入るか躊躇したが写真が撮れる1室があると聞いたので行くことにした。

沖縄は明治以前は王国・琉球として独立していた。そのため、方言で話されると全く理解できない(群島の人のネイティブな言葉ならなおさら分からない)。にも関わらず日本と親和性が高かったのは交易により大陸文化の影響を同じように受けていて、漢字文化圏にあったからだろう。そして、大陸の絶対的な影響を避けつつ、貿易立国として生きる道を貫いたため、王国が保たれたのだろう。日本がアメリカの絶対的な影響を避けつつ経済発展を遂げていた昭和に似ている。

さて、展示会ではメインとなる琉球関連資料が集まっていた。ただ、第二次大戦で戦地として激しい攻撃に合った沖縄には資料が余り残っていない。そのため、発掘品は別にして出品は各地にちらばっているものと、沖縄にあるものが半々ぐらいの割合となっている。

国宝では東大が所有する島津家文書が出ていた。島津家の薩摩藩琉球との交易の唯一の窓口で、書面で交わした重要な内容を保管していた。それぞれ書面として独立して保管しているのではなく、古筆の手鏡のように大きな冊子に貼り付けていた。この方が無くなり難いので合理的だが、保管スペースに困る。博物館とは違い学問の府に収めることで、研究対象として保管・活用されることを思えば、最適な場所に落ち着いている国宝だ。

手鑑 見努世友 出光美術館

コロナ禍に突入して出光美術館は開館を控えていた。都心のビル内にあるため閉鎖空間でコロナ対策がきっちりと構築して、感染が落ち着くまでと慎重な対応だった。若冲コレクターで有名なプライスから譲り受けたものの展示や、開館55周年を記念した展示会などが2021年記念イヤーはほぼ開館することはなかった。

事前予約などを導入してオミクロン株が落ち着いた2022年春、久しぶりに出光美術館が開館した。しかも、国宝・見努世友の修繕を終えた記念展である。名品を揃える出光に相応しく、古筆と茶道具を織り交ぜた展示会となった。

最初の部屋から奈良時代から鎌倉時代にかけての古筆で重要文化財や重要美術品クラスが惜しげもなく展示。茶道具として床の間に飾るために切られたものが多い中、大般若経薬師寺経)や絵因果経、久松切倭漢朗詠抄などの巻物もあった。断簡とならずにそのまま残っているのは見ごたえがあった。

第二室に本命の国宝手鏡の見努世友が陳列されていた。もともとは各種の断簡が1冊の裏表に貼られていたが、今回の修繕の機会に裏と表にあったものを2冊に分けた。まずは裏面に貼られていたものが展示。聞いたことのある名前が並ぶ。少し離れた対面のショーケースには表面があり、こちらは手鏡の形式通り、最初に大聖武が最初にあり、光明皇后聖徳太子など歴史の教科書に必ず載っている偉人の筆が並ぶ。

手鏡は書の手本となるとともに、執筆鑑定に使用するため有名人の書で構成されている。それらの真筆をいかに集めるかが重要で、国宝に4件指定されている。この国宝の手鏡たちはたまに展示会で陳列されるのだが、どうしても一部(とくに有名な部分もしくは展示会に関連する部分)だけしか開かれないので、今回の展示のように半分近くを長々と公開されることはあまりない。修繕記念の展示の機会を逃すと二度とないかもしれない展示方法だったので、じっくり堪能した。たまには展示内容ではなく、見せ方を工夫しただけの展示企画があったもよい。

釈迦金棺出現図 京都国立博物館

京博でも延暦寺の根本中堂の内陣を再現していた。ここだけが写真OK。1階の個室に再現していたので周りに展示物はなく、展示会に来ていることを忘れて、ここだけ祈りの空間と化していた。

京博所有の中から国宝の仏画、釈迦金棺出現図が展示されていた。前所有者は松永耳庵。平安仏画で縦160cm×横230cm弱と大型。摩訶摩耶経の説く釈迦再生説法の場面を描いた図である。

この図を観るといつも真ん中で切れているように見える。釈迦が復活して棺から起き上がり光明に輝きと棺桶部分の落差が境目に見えてします。また、涅槃図のように周りを囲む人物と動物が棺桶を見えにくくしていて、下半身のない釈迦に見えてします。入滅からの復活と言えばイエスキリストにも同じ場面があり、認知度では釈迦以上に広まっている。どちらが真似たとは言わないが、宗教的な逸話は似たようなものが多い。

遺告 良源筆 廬山寺

天台宗を盛り上げた初期メンバーとして、最澄円珍、円仁がいるが、中期を盛り上げた人物として良源の貢献度が頭一つ抜けている。中興の祖といっても言い過ぎではない。

良源は第18代天台座主で、通称の元三大師という名で知られいる。東京会場では深大寺の巨大な元三大師像がお出ましになって、インパクトを与えた。良源は火災で大きな被害を受けた延暦寺を復興するため、角大師像や豆大師像、厄除け大師を描いた魔除けの護符を広めて普及させた。また、いまでは当たり前となっているおみくじの創始者でもある。ただし、おみくじは今のような運試しの形式ではなく、あくまでも進むべき道を訓するコンサルタント的なものだった。信奉者に対して分かりやすくて布教しやすいアイテムを作ることで全国的に人気となり、良源を祀る寺院は近畿だけでなく関東にも広まっている。

その良源が自身の亡くなった後のことを詳しく弟子に示した自筆の遺言状が遺告として伝わっている。61歳の時に書いたのだが、その後に病気が治って10年以上健在で、行基に次ぐ大僧正の地位にまで上り詰める。無事来れ名馬ではないが、名僧も長生きする。

遺告は草稿のようで間違いなどの訂正が墨で塗りつぶして書き直している。文字はすらすらと思うに任せて書いているので、読み返して修正を思い立ったのだろう。人生を悟ったことで、伝えるべきことを残そうとしている。まさに平安時代の終活の一場面が目の前で観ることができた。

国宝拝観者たちの夢、それは千件越え。 毎年、国宝指定数が増えているので、容易にはなってきているものの、一つの目標である。 900件を超えた辺りから新規の拝見ペースが落ちているが、果たしていつ達成なるか。