国宝を観る

国の宝を観賞していくサイト

国宝を楽しむため、いろいろ書いています。 勉強不足でも観れば分かる。それが国宝だ。

【聖徳太子】四天王寺縁起(根本本) 四天王寺

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1400年以上の長い歴史のある四天王寺だが、その存在を証明するものが四天王寺縁起である。四天王寺がどのような起こりで歴史を歩んできたかが書かれたものである。

それだけならば大きな寺院では大抵作られているのでよくて重要文化財止まり。四天王寺縁起の根本本は、改ざんされないために朱の手印が押されている。発見当時は根本本は聖徳太子自ら書いたとされ、手印がリズミカルに押されている。ただ、時代を経て本本本は発見された平安中期のものとされ、聖徳太子の真筆ではないことが分かった。これでは国宝にはならない。

国宝指定となったのはその根本本を写したものが価値があるためだ。写しを造ったのは後醍醐天皇で、自身の手印を押して完成させた。後醍醐天皇宸翰本と呼ばれており、後半に入替で登場する。根本本があって初めて後醍醐天皇宸翰本もできるので、一括での指定となった。写しのはずが作る人によっては超お宝になり、原本までも国宝となった。ものまねタレントのブレイクが本家の再ブレイクへとつながったような国宝である。

【聖徳太子】丙子椒林剣 四天王寺

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大阪市立美術館で開催されている聖徳太子展の目玉展示は丙子椒林剣だ。巡回地のサントリー美術館では七星剣が展示される予定なので、四天王寺保有する古代の剣2振りが会場を替えて登場する。

展示は入ってすぐの部屋の奥でしていた。懸守の展示が地味だったのは、そのすぐ横に丙子椒林剣が展示してあったことも影響していたかもしれない。いわゆる反りのある日本刀と違い直刀であった。反りは平安時代に取り入れられたのだから当然だが、刃は片方にしかないのは日本刀のルーツを見ているようだった。銅剣などの古代の出土品は両刃が多いので、変化の過渡期の刀なのかもしれない。刀身はそれほど厚く作られていないので見た感じは軽々と扱えそうで、戦闘向きというより儀式などで使われる部類のものだった。聖徳太子は体育会系のイメージが全くなく、文科系の作戦官的な役割だったのだろうから、あくまでも飾りに過ぎないからだろう。

刀には腰元の平地に金象嵌で「丙子椒林」と隷書体で刻まれている。丙子は干支で、聖徳太子が活躍した時代なら556年となり、百済より仏教がきた欽明天皇の時代となる。聖徳太子は和を以って貴しとなすの精神を広めたが、和に準じない人々もいるので武力の象徴である刀が必要となる。丙子椒林剣や七星剣は和を広めるための重要なツールであるため今日まで受け継がれたのだろう。

さて、丙子椒林剣の展示の横には七星剣の模造が展示してあった。大阪市立美術館では見ることができないとばかり思っていたが、模造とはいえ見る機会を得れたことは素直に驚いた。これでサントリー美術館へ俄然訪れたくなった。正倉院の模造や綴プロジェクトなど、本物に近い形での模造は文化財に触れる機会を増やすので、企画趣旨に合った場合は積極的に貸し出しや展示をしてほしい。

【聖徳太子】懸守 四天王寺

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聖徳太子遠忌1400年を記念した展示会で、法隆寺の寺宝をメインに据えた聖徳太子法隆寺展は奈良と東京の国立博物館で無事開催された。東京は観に行けなかったが、奈良博で十二分に堪能した。続けざまに、聖徳太子所縁の寺院である四天王寺の寺宝を中心にした展示会が大阪市立美術館サントリー美術館で開催される。ひとつの企画では収まらない聖徳太子関連の展示会。信仰の幅広さが知れる良い機会である。

聖徳太子が建立したといわれている七大寺は、法隆寺広隆寺法起寺中宮寺・橘寺・葛木寺四天王寺で、その中で官営で本格的な寺院として日本で最初に建立されたのが四天王寺である。なので、聖徳太子が仏教を布教させた功労者であると共に、四天王寺は日本仏教の最初の地である。

そんな四天王寺は大阪の中心にあったため、様々な戦や災害により法隆寺のように古くから残る建物があまりない。なにせ、境内からは超高層ビルあべのハルカスが間近で見えるぐらい都心部にある。交通の便としてはとてもよい。今回の展示会の大阪会場は大阪市立博物館となっている。四天王寺から歩いて十数分ととても近く、展示会の半券を見せると四天王寺の庭園や宝物館で割引が受けられる。

さて、展示は聖徳太子の彫刻たちの出迎えで始まる。2歳の時の丸坊主の赤子が念仏を唱えてる通称・南無仏太子像、両髪を束ねた童形半跏像、顎が角ばった凛々しい姿の摂政坐像が直線状に展示。まるで、人間の進化の過程を模型で表したような配置だった。

彫刻のそばには奈良時代飛鳥時代の工芸品が展示されていた中に懸守も展示してあった。突然の国宝登場に、見逃している人も多かった。懸守自体がコンビニのおにぎりぐらいの大きさなので、それほど目立たないにも関わらず、他の工芸品と同等に陳列したので気の止める要素がない。何度か見ていたことが幸いして、歩みを止めてじっくり見ることができた。前期は松喰鶴文で、鶴の金工物はしっかり作られていて、身に着けて持ち歩き、自慢したくなる品だ。

 

三重塔 明通寺

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明通寺は国道27号を東小浜駅新平野駅の間ぐらいで山道に入った山中にある。無料の駐車場を完備しているありがたいお寺で、駐車場から川を渡って見上げると山門が見える。渓谷の起伏をうまく利用していて、高台に山門、受付から緩やかな登りの先に本堂、そして一段高い位置に三重塔を配置している。山城を造るならば最高のロケーションである。

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明通寺と言えばという写真アングルは本堂と三重塔が一緒に映り込む構図(真上の写真)だ。この後ろが渓谷になっていて、川のせせらぎが聞こえてくる。高い木々に囲まれているため、ひんやりしていて涼を感じるには絶好の場所だ。

三重塔は純和様で見た目をよくするため、上に行くほど小さくなっている。鎌倉時代中期の作品で、初層に拳鼻を用いる点に入宋経験のある僧重源によってもたらされた大仏様の要素がある。これは近くの若狭神宮寺東大寺のつながりからもたらされた技術かもしれない。都とのつながりが深い若狭地域だから導入できた最新技術の痕跡である。30分もあればすべてを見ることができ、それほど大きくない境内だが鎌倉建築を十二分に堪能できる。

本堂 明通寺

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福井県小浜市は港町で律令時代が成立する以前から、日本海側の玄関口として栄えてきた。小浜から琵琶湖まで抜ける南北の街道は鯖街道と呼ばれ、海のない京都や奈良へ海産物を運ぶ重要な物流を担ってきた。海産物を都まで送った御食国のひとつとして、小浜を含む若狭は発展してきた。この物流を通じて、小浜は都の文化を受け入れてきたため、その名残が多いことから小京都とも呼ばれる。

都の文化を反映した行事としてお水送りがある。春を告げる行事として東大寺で欠かすことができないお水取りがあるが、若狭神宮寺ではその水を二月堂へ送る神事が行われる。東大寺二月堂の修二会で神名帳を読んで全国の神を招いたが、若狭神宮寺の遠敷明神が漁で忙しくて遅刻した詫びとして水を献上することとなったのが由来だそう。畿内と大陸の文化交流は瀬戸内の海路が中心だとばかり思っていたが、日本海側にもルートをもっていたことがヤマト王朝が勢力を拡大できた要因のひとつかもしれない。

若狭に目を付けたのは王朝だけではない。弘法大師空海も目を付けていたそうだ。若き日に仏教に目覚めて聾瞽指帰を書いた空海は、その後10年近くの行動が不明で大陸に渡る遣唐使に長期留学生として乗船する。この雌伏の期間に四国や吉野で修行したなどの伝説があるが、土木の知識を生かして辰砂(水銀)の鉱山開発をしていた可能性がある。この水銀は常温で液体となる唯一の金属で、唐では不老不死の薬と言われていた。これを若狭から輸出して、大陸に渡って時にその功績が認められて青龍寺の恵果から密教の奥義をすぐに教えられ、空海伝説が始まったという説がある。嘘か真かはともかく、認められるために努力したことは間違いない。

そんな小浜には国宝建築が2つあり、共に明通寺にある。見るためには海沿いからは少し山に入った場所にあり、周りからは遮断された空間となっていた。

明通寺は征夷大将軍坂上田村麻呂蝦夷たちの鎮魂のため開創したとされる。東北と北陸とでは距離があるように思うが、北前船では一本の航路となるため、畿内から東北へ出発する起点だったのだろう。また、真言宗御室派に所属しているのが空海との関係性に想像を膨らませる。

国宝の本堂は鎌倉時代中期のもの。中世密教寺院の本堂として典型的な五間堂で、単層入母屋造の檜皮葺となっている。珍しいのがご本尊の並び。薬師如来が中央にあり、一般的ならば日光・月光菩薩が両脇を固めるのだが、明通寺の両脇には降三世明王深沙大将となっている。それぞれ2メートルを超える仏像で、国宝建築内にあっても見劣りしない迫力ある仏像になっている。

開山堂 永保寺

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山中の木々を開いて池を作って庭園に仕上げた永保寺の観音堂に対して、開山堂は同じ場所にあるとは思えない静かに建っていた。

池泉式庭園を池に沿って半周した先に1本の道がある。開けた伽藍内にあって、木々が鬱蒼と茂っている奥に建物が見える。観音堂が太陽だとすれば、開山堂は月のように庭園を日陰で見守っている。

観音堂と同じく入母屋造りで、夢窓国師と開山した仏徳禅師の頂相が安置されている。夢窓国師禅宗の僧侶として数々の名庭園を造った人物で、天竜寺や西芳寺など京都でも屈指の人気を誇る庭園を演出している。夢窓国師が直接同地に来た記録はないが、すばらしい庭園に仕上がったのは何らかの形でプロデュースしたからかもしれない。(もしかしたら名義貸し?だったかも)

 

観音堂 永保寺

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歴代最高気温ランキングトップテンに入る岐阜県多治見市。2000年代に入り、最高気温ランキングは目まぐるしく変わり、浜松が現在ランキングは一位。それまで一位だった熊谷では日本一暑い町として売り出すに至っている。

多治見市も暑い町として売り出しているが、元来は美濃焼の産地として有名である。東濃は日本最大の陶磁生産拠点で、志野焼織部焼など国宝・重文が誕生した地でもある。2021年にはアニメーション「やくならマグカップも」が放送され、焼き物にも注目を集めるよう前半がアニメ、後半が出演声優による多治見市ロケという奇抜な構成となっている。

暑い多治見には国宝建築物がある。永保寺の観音堂と開山堂で、多治見駅からは北へ数キロとなる。国道19号線から山へ登る道に入った山の中に寺院がある。標識がなければ周りから全く見えず隠れ家といってもよい。

目印となる大きな石の標識が見えると少し開けた場所となる。そこからJR中央線の踏切が見え、これがなければとても静かな場所である。踏切を超えると市松模様に石が置かれた庭園を右手に、左手には続芳院があり、ようやく入り口が見える。入り口からすぐ下り坂で、眼下に伽藍の建物が見える。

とぼとぼと下ると、正面に大きな檜皮葺きの屋根が見える。この建物が観音堂でちょうど真裏とあたる。なので建物内にいる観音様が見ているであろう池泉式庭園を俯角で見ることになる。池泉式庭園は水平レベルで見ることはあっても上から見るためには高い建物からが多く、ほかの寺院ではほとんどない演出につながっている。

下りきった先は池を中心に観音堂。山を背にした方丈がある。方丈は新しく2003年に火災で焼失し、庫裏が2007年、本堂が2011年に再建されたばかりだ。古い建物だった頃に来てみたかった。

観音堂は池に囲まれてはいるものの、橋などで正面まであるいて行くことができる。建物形式は入母屋造で、軒反りが強い屋根が特徴となっている。この反り返りが鎌倉時代にはやった禅宗様の雰囲気を醸し出している。

観音堂の正面には太鼓橋のような丸みを帯びた無際橋があり、そこから参拝ができる。また、お堂の左側は山肌がそのままあり、滝が流れたり、立てた岩や仏像を配置して梵音巌を造っている。それらすべてがお堂と一体となって浄土極楽をこの世に再現している。観音の導きが国の名勝庭園と登録されるのも当然なぐらい、自然を生かした造りとなっている。

国宝拝観者たちの夢、それは千件越え。 毎年、国宝指定数が増えているので、容易にはなってきているものの、一つの目標である。 900件を超えた辺りから新規の拝見ペースが落ちているが、果たしていつ達成なるか。