国宝を観る

国の宝を観賞していくサイト

国宝を楽しむため、いろいろ書いています。 勉強不足でも観れば分かる。それが国宝だ。

渡海文殊群像 安倍文殊院

2014年に東博で行われた国宝展で、目玉展示のひとつであった渡海文殊群像の善財童子立像・仏陀波利立像は安倍文殊院に鎮座している。といっても本当は文殊菩薩の御付きなので、東征の下見に行ったということだろう。

釈迦三尊像では普賢菩薩とともに釈迦如来の御付きとして配置される文殊菩薩。ご本尊となると知恵の仏様として奉られるため、受験シーズンに多くの学生が祈念しに訪れる。安倍文殊院でもシーズンになると参拝者が増えるそうで、学問の神様である菅原道真公が祀られる天満宮に並ぶご利益スポットになる。もう一つ、ご利益があるのが魔除け。天文により占いを得意とする安倍一族の氏社であり同院は魔除けの祈祷を行う。そこでコロナ退散を祈願する人々が結構来ていた。

以前、訪問した時には接待によるお茶のもてなしがあった。しかし、コロナの影響で振る舞い茶はなく、お土産に落雁を頂いた。本堂に入り、廊下を抜けると正面に文殊様御一行が現れる。海を渡っている様子を彫刻化したもので、文殊様は唐獅子に乗り、左に維摩居士(最勝老人)と須菩提(仏陀波利三蔵)、右に手綱を持つ優填王と先導役の善財童子を御付きを配して並んでいる。快慶作の文殊菩薩は凛々しい顔立ちと豪華な装飾で飾られている。唐獅子は菩薩に比べて余り丁寧な彫られ方ではなく、後からやってきたのかもしれない。御付きの4名も肉体表現から表情に至るまで慶派の流れを感じる出来の良いもので、国宝となるべくしてなった秀逸な仏像たちであった。

さて、安倍文殊院の公の場所以外に掲げられている寺院名はアンニュイな文字(写真参照)が使われている。こんな緩い文字はだれが書いたのかと思ったら、榊獏山先生の書だそうだ。亡くなられて10年経ち、近畿に所縁のある書道家の痕跡が残っていて、思わぬ発見となった。

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高松塚古墳

高松塚古墳の発見が昭和の古代史ブームの火付け役となった。1970年に村民により偶然発見された切り石はやがて世紀の大発見へとつながった。

1972年から本格的な発掘が開始され、翌年の1973年には特別史跡、されには1974年4月17日に国宝の指定を受ける。このスピード感ある対応が後々の保存作業に大きく影響した。(この反省からかキトラ古墳は発見から国宝指定まで33年経ってからとなった)

国宝に指定されたことで、現状保存が絶対となったことから、発見現場での保存をする羽目となった。世界的にも例がなく、作業は多くの困難を伴った。石室内の温度・湿度を保つことで、現状を維持しようとするものの、雨漏りをはじめカビや虫などが発生して壁画の退色や変色が起こり、現地での現状保存の限界となり、石室を解体して移動させることとなった。そして、現在の飛鳥歴史公園にある修理施設へ移動させて、定期的な公開されるようになった。

施設では解体したすべての石が観ることができる。ただ、あくまでも修理施設のため、手前にあるものは肉眼でも見えるが奥にあるものは絵の部分はほとんど見えない。そのため、簡易な双眼鏡を借りることができる。施設公開に合わせたかは分からないが、比較的に絵が残っている飛鳥美人や玄武などを見やすい手前の位置に置いていた。

飛鳥美人正倉院の鳥毛立女屏風のような大陸風の美人が複数人並ぶ。身にまとっているカラフルな衣装は残っており、1300年前のファッションモードが分かる。ほかにも玄武は頭部分が潰れていたがとぐろを巻いている鱗の部分が繊細に描かれており、空想の生き物に命を吹き込むべく丁寧な仕上がりとなっていた。

施設が修理を前提としたものであるため、見学スペースはそれほど広くはない。参加した組では7名だった。見学時間は10分。石を運び出して修理するための施設なので、この後に新たな施設を建設するためのアンケートも取っていた。国宝にふさわしい壁画であるのは間違いない。一目見ただけで古代ロマンに思いを馳せられる貴重な文化財である。

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高松塚古墳

 

キトラ古墳

奈良県明日香村は戦後にようやくパンドラの箱が開いた古代ロマン薫る村である。

戦前までは聖徳太子以後の文明が日本史として語られ、それ以前のもの、特に古墳に関する研究は現人神たちの領域のためできなかった。森鴎外も帝諡考を残すぐらい研究はしていたがあくまで机上のことで、博物学の観点から実際に古墳などの調査まではできなかった。戦後になり、古墳のなかで天皇家の先祖が眠っているとされる陵墓は引き続き宮内省の管理下に置かれて調査ができないが、それ以外の古墳については進められた。

しかし、多くの古墳ではすでに盗掘された後で目ぼしいものが残っていないばかりか、墓の内部も荒らされていた。藤ノ木古墳のように副葬品が大量に残っていることは珍しく、大抵は運び出せない石室が墓であった証として残るのみである。石舞台古墳は埋められていたであろう石室がむき出しになって公開されている稀有な存在で、盗掘されたあとの石室は土に埋もれて小高い山と化すことがほとんどである。

そんな小高い山の内部で持ち運びができないで残っていたのが壁面の絵画である。埋葬者に寂しい思いをさせないために丁寧な図柄が描かれていた。エジプトのピラミッドでも描かれており、当時の宗教観を色濃く反映させたものに仕上がる。

キトラ古墳は横の壁に方位を表す四神と十二支、天井に天文図が描かれていた。陰陽五行思想をそのまま展開。大陸文化の影響下で作られた石室である。発見が1983年で、昭和の終わり頃の発見だった。それ以前に高松塚古墳が発見されていて、多くの失敗を経験していたことから慎重に調査が進められた。その結果かどうかは分からないが、現状保存することが困難と判断し、石面に漆喰を塗った上から描かれている絵のみをダイヤモンドワイヤーソーで切り取り、修繕保存する方法と採った。以後、2010年までに取り外し作業を完了し、2018年に国宝に指定された。(国宝などに指定されると現状維持が絶対となるので阿吽の呼吸で指定が発見から27年後となったのだろう)

取り外し後は、近くに特別な保管施設を作り、年に数回、本物を公開している。その公開に合わせて明日香へ行った。

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近鉄・壷阪寺駅から歩いて15分ほどの距離にある施設は、地下階に無料の紹介コーナーがあり、国宝壁画が眠る1階は特別公開のみオープンする。事前予約制でキャンセルの状況次第で当日でも見学できる場合がある。ただし、ほとんどキャンセルがないので、大勢で見るのならば予約は必須である。

予約時間に飛鳥資料館に入ると検温と予約の確認があり、チケットの代わりに胸に貼るシールがもらえる。これをつけて指導員の指示に従い1階の保存スペースに上がる。おおよそ15名が1組となって、展示スペースへ入る。最近造られた建物だけあって、見学の導線がきっちりしているだけでなく、スペースも十分確保しており、コロナ対策も万全であった。

入口近くに副葬品(複製)と説明文が並べられ、壁画は2面(朱雀と青龍)公開されていた。朱雀はほぼ完全体で残っていた。7世紀ごろの壁画が肉眼で見てもはっきりわかる状態で残っていることだけでも奇跡に近いが、そのデザインが現在でも通じるぐらいうまい絵で浮遊感はもちろん疾走感まで感じる素晴らしい鳥を表現していた。鳥の絵を見て感動したのは、初めて地獄草紙の鶏地獄の鶏を見て以来だった。一方で、青龍は残念ながらほとんど残っていなかった。唯一の痕跡は頭の描線とそこから出ていたであろう舌の赤色。同じ壁面に描かれていた擬人化された虎像は纏っている衣やこちらも赤色がくっきり見えた。見学時間はきっちり10分。

このスペースと建物ならば、常時の見学も問題ないように思えるが、保存のためには限定公開になってしまう。薄切り壁画は外に出すことは難しい。国宝に指定されたことで多くの人に見せられる環境となったことだけでも満足しなければなるまい。

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納涼図屏風 久隅守景

久隅守景の作品で一番最初に知ったのが納涼図屏風であった。そのため、ゆるキャラの画家なのに国宝に指定される稀有な人というイメージがあった。

ところが調べると久隅は狩野探幽の高弟で、狩野派の流れを汲む画家であった。そのまま行けば宮廷画家で大成功だったのが、探幽の姪とも結婚して狩野派の棟梁にも手が届く勢いだったが、師匠の下を去ってしまった。

その下地があるにも関わらず、田園風俗画を描く境地に至った。おそらくは狩野派の流れであることを知られないために画風を変えたのだろう。それが西洋では自然派のミレーが誕生したように、日本にも自然派が誕生した証となり、納涼図屏風が国宝になった所以かもしれない。

観れば観るほど長閑な風景が広がっている。大抵の国宝は緊張感ある整ったものばかり。東大寺の試みの大仏と双璧をなすゆるさである。

www.emuseum.jp

桜ヶ丘銅鐸・銅戈 神戸市立博物館

 昨年リニューアル工事を終えて再開した神戸市立博物館。2020年はコートードル美術館やボストン美術館など、超メジャー美術館の特別展が開催される予定だった。しかし、コロナ禍のため中止となった。大型特別展が中止となったことで、神戸市立美術館はコレクション展と常設展のさみしい内容で開館中だ。

リニューアル後の神戸の歴史を紹介する常設展は1階に集約され以前とは様変わりした。2階はコレクション展となり、国宝の銅鐸と銅戈がおしゃれな形で展示されている。黒を基調としたシックな部屋に国宝のみを展示する部屋を設けた。これまでは時系列に2階から始まり1階へと続く導線で神戸の歴史を説明していたが、2階のコレクション展はテーマごとに展示している。国宝室の隣がフランシスコザビエルの肖像画の複製が単独展示されていたり、奥の部屋にはガラス工芸の器を展示するなど、見やすさ重視となっていた。

国宝の銅鐸は裏表が見れるように展示。図が描いてあるものはショーケースにその図をピックアップしてキャプションのように貼られていたので、見逃すことがない工夫がされていた。銅戈は今年の冬に東博であった出雲・大和展で見た大量のものから比べると迫力はなく、国宝銅鐸の附属?感が否めない。

海外美術館の特別展は当分出来そうにない。また、開港5都市歴史展も中止になるなど、リニューアル早々に大きなが穴が開いてしまった。ぜひ、国内の芸術を楽しめる企画立案を期待したい。

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伴大納言絵巻

4大絵巻物のひとつとされる、出光美術館が所有する伴大納言絵巻。(他は源氏物語絵巻鳥獣人物戯画信貴山縁起絵巻)なかなかお目にかかれず出品されない貴重な絵巻物である。

ほかの3つは定期的な特別展や貸し出しなどで数年待てばどこかで出品される。しかし、出光美術館所有の伴大納言絵巻は、出光自体の企画力が素晴らしいため特別展に入り込む余地がないのお披露目がなかなかない。また、貸し出しもほとんどない。

絵巻物など大量の人物が出てくる時の表現は、画一的で定型な人物表現かそれぞれ個性あふれる表情豊かに描き分けたものに分類される。源氏物語は定型的な書き方だが、そのほか3つは個性的な人物(動物も)が躍動している。その表現力と、実際にあった伴大納言を中心とした応天門の変を主題に、起伏に富んだ内容に仕上げている。後のマンガ表現につながるこれらの描き方は、平安時代から日本人の中で確立したと言えなくもない。伝統芸の域にまで達したマンガが世界に向けても普及できたのもの、絵巻物があってのことかもしれない。

idemitsu-museum.or.jp

普賢菩薩像 東京国立博物館

ぶらぶら美術・博物館の日本画10選で、時系列的に最初に紹介されたのが東博所蔵の普賢菩薩像である。

平安時代の作品にも関わらず、彩色がほとんど剥げ落ちずに残っており、大切に保管されてきたことが窺える。顔立ちは奈良時代に多く描かれたふくよかさはなく、(乗っている白象もだが)鋭い眼光と派手さはないが高貴さを表す装飾が散りばめられており、異国情緒を感じる仏画に仕上げっている。大倉集古館には木造の普賢菩薩像が国宝に指定されているが、象の目つきは東博所有のものと同じように鋭い。平安時代の人々が象を間近で見たことがないので、同じ形式になったのだろうが、まん丸で可愛い目の実物を見てしまうと表現も変わっていたかもしれない。

https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A1

国宝拝観者たちの夢、それは千件越え。 毎年、国宝指定数が増えているので、容易にはなってきているものの、一つの目標である。 900件を超えた辺りから新規の拝見ペースが落ちているが、果たしていつ達成なるか。